中国 北京にある世界遺産、頤和園(いわえん)をツアーで回った旅行記と見どころ

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頤和園の正門 東宮門

日本旅行のツアー「観る味る北京4日」では、北京にある6つの世界遺産の内の5つが観光できました。(1つだけ外れていたのは「北京原人遺跡」)

その1日目に訪れた「頤和園(いわえん)」について記事にします。

「頤和園」とは中国の皇帝一族が利用した、広大な庭園のある夏の離宮です。日本で言う「桂離宮」のような場所だと思われますが、スケールが違います!

中国は何でもデカい!

頤和園もかなり広くて結構歩きますし、ツアーのコースによっては、小山を登りますから、ヒールやサンダルは避けて、歩きやすいスニーカーなどがおススメです。

参考 今回の北京の旅については、高齢者の母と行く北京ツアー旅行 にまとめております。

頤和園と西太后の関係とは

頤和園看板

「頤和園」はもともと、「明」の時代の皇帝たちが作った「清漪園(せいいえん)」という名前の庭園・離宮で、王朝が「明」から「清」に代わったあとも、離宮として使われ続けていたようですが、1860年(江戸末期)のアヘン戦争で、英仏連合軍の攻撃を受けて破壊されてしまいます。

この28年後の1888年(明治21年)に、西太后が再建し「頤和園」という名前に変えます。

しかし、せっかく再建した頤和園ですが、12年後には義和団の乱(”大塩平八郎の乱”みたいなものだとガイドさんが言っていた)がきっかけで欧米列国と戦争になり、再び8ヶ国連合軍によって破壊されてしまいますが、西太后は懲りずに2年後(明治35年)に再び再建し、それが現在の頤和園の姿なのだそうです。

実際に訪れてみると、ものすごく広くて豪華な建物・庭園でしたから、ここまで直すには、かなりのお金が必要だったと推察されます。

再建の費用は、日本との外交関係が緊迫しているのも関わらず、海軍の軍事費にまで手を出したとかで、西太后は今でも中国国民から嫌われているようです。日本が日清戦争で勝てたのは、西太后が実権を握っていたお陰かもしれません。

年表にしてみると、確かに、日清戦争の前にも後にも再建しているのがわかります。

  • 1860年(江戸末期)アヘン戦争で破壊される
  • 1868年 明治維新
  • 1888年 西太后が再建
  • 1894年 日清戦争の開戦
  • 1900年 8ヶ国連合軍に破壊される
  • 1902年 再び西太后が再建
  • 1908年 光緒帝と西太后が死去 溥儀が第12代皇帝となる(ラストエンペラー)

国が危ないというのに、のんきに離宮を修復する神経がわかりませんが、こんな事情で何度も建て直されているため、「明」時代の建築物はあまり残っておらず、↓の写真の遥か先に見える「十七孔橋(じゅうしちこうきょう)」というアーチが17個ある橋と、ほんの一部の建物だけが古く、他は割と新しい100年ほど前の建築物になります。

昆明湖と十七孔橋

ほとんどが西太后が再建したものなので、かなり西太后とゆかりが深い場所のようです。

西太后って、どんな人?

西太后 と言えば、映画にもなった超有名な実在の人物で、映画ラストエンペラーにも、溥儀を皇帝に選んだ役で出てきましたが、西太后についてざっくりとまとめると、

  • 西太后は、清国の第9代皇帝である咸豊帝(かんぽうてい)の側室だったが、世継ぎの息子を産んだことで力を持つ
  • 息子は第10代同治帝(どうちてい)となり、その母として政治の実権を握る
  • 残念ながら息子は、子を残さずに19歳の若さで亡くなってしまう
  • 妹の子(甥)を、次の第11代皇帝 光緒帝(こうしょてい・こうちょてい)にして、その後も力を振るった

という人物らしく、清王朝を滅亡まで追い込んだ悪女と言われているようです。

中国では、あらゆるところに龍と鳳凰をモチーフにした彫刻等が存在しましたが、皇帝のシンボルである龍を中心にして、その傍らにやや控えめに皇后のシンボルの鳳凰を置くのがセオリーだったらしいのですが、西太后のお墓は龍よりも鳳凰を上に描かせていたらしく、そんな大それたことをさせた西太后はかなりの野心家であり、皇帝以上の権力を手に入れたいと願っていたことがわかるエピソードです。

また、どこまで真実なのかはわかりませんが、私が若い頃に公開された「西太后」という映画では、”ライバルの手足を切って、生きた状態のまま壺に入れる”という残酷な行為を行ったということが話題になりました。

気になる人は、西太后 の映画をご覧になってください。

「観る味る北京4日」ツアーで回った頤和園の観光コース

現地ガイドさんの案内で回ったコースを、ざっくりとご紹介します。

東宮門:頤和園の正門

「頤和園」の看板がある「東宮門(とうぐうもん)」。ここが頤和園の正門で、皇帝や皇后専用の入り口だったそう。

頤和園の正門 東宮門

仁壽門

「東宮門」から入って、さらに「仁寿門(じんじゅもん)」をくぐる。

看板の「仁壽門」と書かれた文字の隣りに書かれた文字は満州語。西太后の時代である「清」は満州族の王朝なので、紫禁城でも清時代の建物には、漢字と並んで満州語が入っていました。

頤和園の仁寿門

仁寿殿:政務を行った建物

皇帝は長期間に渡って紫禁城を離れ、この頤和園に滞在したそうで、「仁寿殿(じんじゅでん)」は頤和園で政務を行うための施設。

頤和園の仁寿殿

仁寿殿の庭にある↓の麒麟像の前で写真を撮る人がたくさんいました。

頤和園の仁寿殿にある麒麟像

“東西南北”の四方位にはそれぞれ四神がいますが(東の清流、南の朱雀、西の白虎、北の玄武)、「麒麟」は中央を意味します。

皇帝は国の中心ですから、その象徴として麒麟像が置いてあるのかな?と占い好きの私は考えます。

昆明湖

昆明湖(こんめいこ)はかなりの広さがありましたが、人造の湖だそうで、「本当に人力で作ったの?」と驚くサイズです。

こういうものを民に作らせていた中国の皇帝の力って、本当に偉大だと感じます。

頤和園の昆明湖

お花が好きな人は、昆明湖の蓮(ハス)が、毎年7月ごろに満開になって見事なのだとか。

私が訪れたのは6月上旬でしたが、夏には蓮の葉が、湖の真ん中あたりまで広がるそうで、なかなか見ごたえがある!とガイドさんは仰っていましたが、北京の7月・8月は、毎日40度近くまで気温が上がる、地獄のような暑さで、夕方には雷を伴うスコールがザーザー降るという、観光するには辛い季節なのだそうです…

昆明湖の蓮と貸しボード

ツアーのプランには入っていなかったので、私は乗れませんでしたが、ボートに乗ると気持ち良さそうでした。

昆明湖は、真冬になると凍るそうで、冬は市民がスケートを楽しむ場所なのだとか。

玉瀾堂:光緒帝が西太后に軟禁された場所

政務を行っていた「仁寿殿」の裏にある建物で、「玉瀾門」をくぐったところにあるのは…

頤和園の玉瀾門

光緒帝(こうしょてい・こうちょてい)の居所だった「玉瀾堂(ぎょくらんどう)」。

西太后の甥の光緒帝は、この「玉瀾堂」で、西太后に10年も軟禁されていたそうです。

頤和園の玉瀾堂

西太后の力で第11代皇帝となった光緒帝は、同世代の明治天皇が日本を近代化したように、自分も古い体制を捨てて国を改革したいと考えますが、保守的な西太后に阻まれ、1898年から10年も「玉瀾堂」に監禁されてしまったというのがガイドさんのお話でした。

閉じ込められている間に、”義和団の乱”が起こるなどして国は乱れ、ますます清国は衰退してしまったのだとか。

楽寿堂:西太后の住居

西太后が暮らした場所「楽寿堂(がくじゅどう)」。昆明湖に面した場所で、ここから舟遊びにも出れるようになっていたようです。

西太后は頤和園が大好きだったらしく、夏場を中心に、1年の2/3をこの「頤和園」で過ごしたのだとか。

頤和園の楽寿堂

西太后は、かなり贅沢三昧していたようで、例えば食事なら、おかゆだけでも毎回10種類以上作らせ、その中から食べたいものだけを食べるという暮らしぶりだったようです。

映画ラストエンペラーにも、皇帝の食事のシーンがあって、料理が行列で運ばれていましたから、西太后の食事もあのような感じだったのではないかと推察されます。

長廊:屋根付きの長い通路

723mもある文字通りの長い廊下「長廊(ちょうろう)」。庭や湖の風景を歩きながら鑑賞するためのものらしいです。

頤和園の長廊

35度を超える暑い日でしたが、湖からの風が涼しく、心地よい場所で、たくさんの観光客が休憩してました。この日は日曜だったので特に人が多かったのですが、空いていれば優雅な気分にひたれる場所だと思います。

頤和園の長廊

長廊の内側には、三国志などの物語が描かれていました。色鮮やかで美しい、細部まで贅沢な造りです。

長廊の中の絵物語

排雲殿:西太后が誕生日を祝った建物

西太后の誕生日を祝った建物「排雲殿(はいうんでん)」。

頤和園の排雲殿

排雲殿の上にチラッと見える八角形の建物↑が「仏香閣(ぶっこうかく)」。

仏香閣は、万寿山の中腹にあるため、少し山を登らなければ行けません。

頤和園と言えば「仏香閣」というくらいのシンボルらしいですが、今回の観光ツアーでは残念ながら観に行けませんでした。

さらにこの山の山頂に、智慧海(ちけいかい)というチベット様式の素敵な仏閣があるそうす。見てみたかったな…

清晏舫(石舫):西太后がパーティを開いた石の船

石製の船、「清晏舫(せいあんほう)」。

船と言っても舟の形をしているだけで、実際には動かない、水上に建築された石の建築物なのだそうです。

アヘン戦争で英仏連合軍に破壊された後、西太后が修復しましたが、その時に西洋風に作り替えられ、西太后はよくここでパーティを開いていたそうです。優雅ですな~

頤和園の石舫

如意門

そして「如意門」から出て、頤和園観光はおしまい!

頤和園の如意門

頤和園観光ツアーの感想

わずか1時間ちょっとの滞在だったので、かなりの駆け足観光で、建物の内観までじっくり見る時間はなく、東宮門(正門)から入って昆明湖の沿岸部だけを、さ~っと通り過ぎた感じでした。

主要のスポットは巡れたのかもしれませんが、万寿山や蘇州街などの個人的に見学したかったところは一切観れず、欲求不満ぎみでした。

私の場合、飛行機の到着時間が遅れた上に、出国審査に手間取って、ガイドさんとの合流が遅れたので、時間が押して、こんな風になってしまったのかもしれませんが…

ただ、激しい登山はなかったので、73歳の母でも十分歩けました。

頤和園はとても広いため、とても1時間では回りつくせませんから、欲を言えばもう少し時間を取って、

  • 万寿山に登って仏香閣智慧海(ちけいかい)を観る
  • 万寿山の反対側の「后山・后湖区」と呼ばれるエリアを観る
  • ボートや舟を使って蘇州街まで移動して、蘇州街を散策

ができればもっと良かったかな~と思います。

これから頤和園に訪れる人で、自由なプランが組める人は、ぜひ訪れてみてください。

それでは最後までお読みいただきましてありがとうございました。

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