目次
- 最近出たベスト「ever」を購入
- 「オフコースが歩み続けた25年(1964-1989)」と自分を重ね合わす
- ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストで2位に入賞 1969年(昭和44年)
- 「群衆の中で」でデビュー 1970年(昭和45年)
- 鈴木ヤスさんが脱退の意思を伝えた1979年(昭和54年)
- 「さよなら」「YES-NO」が大ヒット 1980年(昭和55年)
- 日本武道館10日間公演 1982年(昭和57年)
- 鈴木ヤスさんが正式脱退 1983年(昭和58年)
- 小田さんが「笑っていいとも」「オレたちひょうきん族」出演1984年(昭和59年)
- ユーミン、財津和夫さんと「今だから」を発表 1985年(昭和60年)
- 小田さんがアメリカに行っちゃった1986年(昭和61年)
- 小田さんがネスカフェのCMに出演 1988年(昭和63年)
- オフコース解散 1989年(昭和64年・平成元年)
- 30年前にどうして小田さんにときめかなかったのか…
最近出たベスト「ever」を購入
小田さんのベスト「あの日あの時」を聴いて、ライブを観に行って、ヤバいくらい小田さんにはまってしまった私は、毎日毎日ネットやTwitterで小田さん関連の記事を読み漁ったり、youtubeで動画を観たりしているうちに、だんだんオフコース時代の小田さんのことが知りたくなってきました。
何から手を付けていいのかわからず、とりあえず一番新しいベストアルバムを購入してみました。
すると、ブックレットにオフコースの歴史が、「オフコースが歩み続けた25年(1964-1989)」という年表で紹介されていました。
これがなかなかためになる年表で、オフコースの歴史と、同時期に起こった歴史や流行が一緒に書かれていて、その時の世相や時代背景を照らし合わせることができました。
オフコースはあっさり売れたバンドではなかったことを知る
その年表によると、小田さんは、鈴木ヤスさんら同じ学校の同級生と、高2の1964年から音楽活動を開始し、
1970年にデビュー、
そして「さよなら」や「YES-NO」のブレイクが1980年。
ということは、売れない苦しい時期が長かったんですね。
デビューしても、鳴かず飛ばずの状況で10年…
同時期に活動していたライバルたちが、どんどん先に売れていったようです…
小田さん、つ、辛い…
「オフコースが歩み続けた25年(1964-1989)」と自分を重ね合わす
オフコースがブレイクした頃、私は何歳で、一体何をしていたのか・・・
私が初めてオフコースの存在を知ったのは、全盛期を過ぎてからでした。
TVで観ることもなく、目立った活動もしていなかったと思うので、正直、オフコースが解散してから出会ったのだと思い込んでいましたが、この年表を見るとそうではなかったということがわかりました。
何でファンにならなかったんだろう??
小田さんも若くて、かっこよくて、今よりもっと声も出ていたはずなのに、学生時代の私はオフコースをスルー。
それなのに何故、30年経った今になって、ジジィになった小田さんに惹かれたのか…
謎です
面白そうだったので、この年表を見ながら、オフコースと自分の歴史を重ね合わせてみました。
ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストで2位に入賞 1969年(昭和44年)
冊子の年表は、高2のクリスマスパーティでバンド演奏をした1964年から始まっていますが、(レベルは高かったのかもしれませんが)音楽を趣味にしている学生が集まって、全校生徒の前で披露したという程度のことだと思うので、歌い手として本当の一歩を踏み出したのは、「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に出場して2位に入賞した、この1969年あたりなのではないでしょうか。
小田さんは22歳。
時代はベトナム戦争の頃。
東大安田講堂攻防戦が起こり、アポロ11号が月面着陸を成功させ、「8時だョ!全員集合」が始まった年。
由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」、いしだあゆみさんの「ブルー・ライト・ヨコハマ」がヒット。
ちなみに、私はまだ生まれていませんでした。
何かの情報で、小田さんはこのコンテストへの出場を最後に、音楽をスパっと諦めるつもりが2位になって、コンテストで1位になった「赤い鳥」に負けたままで終われない!と、音楽を続けることにしたそうです。
潤子さんの歌声に「衝撃を受けた」と小田さんはおっしゃっていましたが、ライバルに負けて悔しかったと言う気持ちは勿論あったはずだけど、生歌を聴いて、ドはまりしちゃったんでしょうね。潤子さんの歌声に!
私が小田さんのライブを聴いて、ドはまりしたように、目がハートになった小田さんを勝手に想像して笑ってしまいます。
山本潤子さんのことを語る小田さんの様子をyoutubeで拝見したり、その後、「風のように歌が流れていた」のステージで潤子さんについて話しておられるのをDVDで見たですが、私には「好きなアーティストのことを、ただ熱く語っているファン」と言う感じにしか見えませんでした。
また、この「ever」に収録されている「夏の終り」なんて、キーが今よりも高いせいか、潤子さんの歌い方にそっくりに聞こえてびっくりしました。今と全然違う、女性的な歌い方。
今風の言葉でいれば、潤子さんをリスペクトしていたのかもしれませんね。
勝手な想像です
「群衆の中で」でデビュー 1970年(昭和45年)
小田さん23歳。
ちなみに私はこの年に生まれました。23歳の歳の差があったんですね←どうでもえぇわ
時代は、大阪万博が開催され、よど号ハイジャック事件、三島由紀夫が割腹自殺を遂げた年です。
ビートルズの「レット・イット・ビー」や、サイモン&ガーファンクルの「コンドルは飛んでゆく」、宇多田ヒカルさんのお母様の藤圭子さんの「圭子の夢は夜ひらく」が流行ったようです。
デビュー曲である「群衆の中で」は、小田さんや他のオフコースメンバーが作詞作曲した曲ではなかったようです。
あんまり売れなかったと、ご本人がラジオ(のyoutube)で語っていました。
デビューのあとは、メンバーが脱退したり、増えたりしながら活動をつづけたようですが、ブレイクはまだ何年も先だったようです。
ちなみに潤子さんがいた「赤い鳥」は、翌年デビューして、すぐに「翼をください」で大ブレイク。
音楽の教科書にまで楽曲が載ったってことは、さぞや当時はすごい人気だったんでしょう。
小田さん自身の曲でのデビューは、3年後の1973年「僕の贈りもの」になるそうです。
この曲は「君住む街へ」のコンサートでも歌っておられましたが、小田さんの処女作だそうで、初めて作った作品を40年以上経った今でも歌い続けられているって、すごいことです。
鈴木ヤスさんが脱退の意思を伝えた1979年(昭和54年)
デビューから9年の年月が流れ、小田さんは32歳。
時代は、ソ連がアフガニスタンを侵攻した米ソ冷戦時代、インベーダーゲームが流行った年。
さだまさしさんの「関白宣言」、西城秀樹の「YOUNG MAN(Y.M.C.A)」が流行。
小3の私は、もちろんオフコースのことは全く知りません。
な、なんと!
幼馴染の鈴木ヤスさんが、オフコースを抜ける意思を固めたのは、「さよなら」の大ブレイクよりも前のことだったのですね。
この情報は、この冊子に掲載されていた、音楽ライター小貫信昭さんの「オフコースの辿った道のり」の中に書かれていました。
世間は、まさかそんなことになっているとはつゆ知らず、オフコースの人気はうなぎ上りでブレイク寸前。
メンバーが2人⇒5人となって「Three and Two」というアルバムが発売された時期ですが、どうもグループの心は一つではなかったみたいですね…
この頃の楽曲は、「愛をとめないで」「さよなら」。
「さよなら」「YES-NO」が大ヒット 1980年(昭和55年)
時代は、出場をボイコットしたモスクワ五輪の開催、巨人軍の王貞治と山口百恵が引退し、ジョン・レノンが殺された年でした。
この年のヒット曲が、松田聖子の「青い珊瑚礁」、田原俊彦の「哀愁でいと」。
私は小4でした。
なるほど、オフコースがブレイクしたのはこの頃でしたか…
ぼちぼち、歌やアイドルに興味を持ちそうな年頃でしたが、私は歌番組よりもアニメの「銀河鉄道999」に夢中でした
オフコースのことは知りません。
オフコースはブレイク後も、紅白やレコード大賞などの、一般的なTVの歌番組には出なかったようで、それ故、お茶の間の認知度は低かったのだと思います。
今でも歌番組には一切出演しないアーティストがいますが、当時のオフコースもそんな感じで、楽曲を制作・発表して、ライブ中心に活動していたようです。
この年は「さよなら」と「YES-NO」の大ヒットで、初の武道館公演も超満員で終了したようで、スターへと駆け上っていった訳ですね。
この頃の楽曲は、「生まれ来る子供たちのために」「YES-NO」。
日本武道館10日間公演 1982年(昭和57年)
「500円」が、お札から硬貨に変化した年で、小田さんは35歳。
時代は、ロッキード事件、ホテルニュージャパン火災、初めてソニーからCDプレイヤーが発売されていましたから、ちょうどレコードからCDに変化し始める頃。
マッチや聖子ちゃん、中森明菜さん、キョンキョンなどの80年代アイドルが大活躍し、岩崎宏美さんの「聖母たちのララバイ」が流行った年です。
私は小6になりました。でもオフコースのことはまだ知りません。
日本武道館で10日間も連続でコンサートをやっていたなんて、メチャメチャすごいスーパーバンドだったはずなのに。
まだ幼くて、「Dr.スランプ アラレちゃん」に夢中でした
音楽にすごく疎かったんです。ま、今でも疎いですが。
武道館10日間ライブの後、初のテレビ特番「NEXT」の制作を行ったと書かれています。
この後、3年間はライブをしなかったようです。
この頃の楽曲は、「言葉にできない」「YES-YES-YES」「I LOVE YOU」。
鈴木ヤスさんが正式脱退 1983年(昭和58年)
小田さんは36歳。
時代は、「おしん」がブームとなって、東京ディズニーランドが開園、ファミコンが発売された年。
ALFEEの「メリーアン」や、わらべの「めだかの兄弟」が流行っていました。
中1になった私は、部活に明け暮れていました。
アルフィーのブレイクはよく覚えているのに、オフコースのことはまだ知りません。やはりこれは、TVに出るかどうかの差なんでしょうか。
この年の8月に鈴木ヤスさんが正式脱退したと書かれていますが、本当はもっと前から別々の道を歩んでいたのかもしれません。
小田さんは、幼馴染であり、長い下積み時代を一緒に戦ってきた戦友と、とうとう決別してしまったようです。
ヤスさんが脱退したあとも、4人で活動することを決めたようですが、武道館コンサートのビデオが発売されたぐらいで、シングルの発売はありませんでした。
この年はこれまでと比較して、極端に活動が少ない感じですが、海外進出を画策していた模様です。
そのせいなのかわかりませんが、この辺りから、曲やアルバムのタイトルが、やたらに長ったらしい英語ばかりに変化して、とっつきにくくなった感じがします。
ここから2年後に、海外進出向けに英語バージョンのアルバムが発売されたようですが、残念ながら契約までは至らなかったようです。
小田さんが「笑っていいとも」「オレたちひょうきん族」出演1984年(昭和59年)
小田さんは37歳。
時代は、グリコ森永事件、カール・ルイスがロス五輪で金メダルを獲った頃です。
この年のヒット曲はチェッカーズの「涙のリクエスト」。確かにチェッカーズ、すごく流行ってたなあ~
チェッカーズはメンバー同士の仲が悪いバンドだったようですが、オフコースもそうだったのでしょうか。
あ、私は中2になってましたが、まだオフコースを知りません。
昨年(2015年)、長年不仲だった小田さんとタモリさんが、フジテレビ社員の結婚式の中で、和解したことがニュースになっていましたが、「笑っていいとも」のテレフォンショッキングに出演して、「レコードをお出しになった?」と質問してきたタモリに、「きっと気に入らないと思いますけど」と小田さんが返したのは、オフコースが4人になったこの頃だったんですね~
動画を探したら見つかりました。あるもんなんですね~
お互い笑いながらも、結構険悪な感じでした。
※flashの動画なのでiPhoneの方は見れないかもしれません。PCなどで観てください。
↓
また、この年に、お笑い番組「オレたちひょうきん族」に出演されたことになっていました。
へ~~
歌番組には出なかったけど、バラエティには出たんですね。この曲が「ひょうきんベストテン」1位になって出演されたみたいです。
気になったので動画がないか探したら、歌っているシーンはなかったけど見つけました。
※かなり後ろの方の14:53ごろです
↓
この頃の楽曲は、「君が、嘘を、ついた」「夏の日」「緑の日々」。
ユーミン、財津和夫さんと「今だから」を発表 1985年(昭和60年)
小田さんは38歳。
時代は、NTTと日本たばこが民営化され、日本航空の御巣鷹山墜落事故が起こった頃。
確か歌手の坂本九さんがこの機に乗っていて亡くなったはずです。
小林明子さんの「恋に落ちて」、レベッカの「フレンズ」、おニャン子クラブの「セーラー服を脱がさないで」が流行りました。
中3になった私は、ここで初めて「YSE-NO」という曲からオフコースの存在を知ったのです!
喫茶店のUSENで掛かっていて、”君を抱いていいの~?”が、心に引っかかりました。
実に、「YSE-NO」の発売から5年後。
おそっ!!!
それをきっかけに、友達から借りた「YES-YES-YES」というベストアルバムをカセットテープに吹き込んで、繰り返し聴いた記憶があります。
この年、小田さん、ユーミン、財津和夫さんの3人でユニットを組んで、坂本龍一がプロディースした楽曲、「今だから」がヒット。
この曲は当時、FMでよく流れていたので知っていましたので、ここで「オフコースの小田和正」という存在を確かに確認したのを思い出しました。
でも、その頃はファンになるところまで至らなかったんですよね…
何でだろ~???
出会ってはいたんだけど、当時は恋愛対象にならなかった、的な感じ? ←おいおい小田さんに失礼だろ!!
この頃の楽曲は、「たそがれ」「夏から夏まで」、他にも英語の曲を発売。
小田さんがアメリカに行っちゃった1986年(昭和61年)
小田さんは39歳。
時代は、チェエルノブイリ原発事故、シートベルト着用が義務化され、映画トップガンでトム・クルーズがスターになり、富士フイルムから写ルンですが発売された年。
中森明菜さんの「DESIRE」が流行りました。
5/8~11/24までと日付まで書いてあったけど、約半年間、小田さんだけが渡米したんですね。
他のメンバーさんも、みんなソロで作品を発表されていました。バラバラな活動が目立ってきている感じです。
オフコースとしての楽曲はなし。
翌年の1987年はツアーを行い、シングルも発売しているようです。
小田さんがネスカフェのCMに出演 1988年(昭和63年)
小田さんは41歳。
バブル時代に入り、リクルート疑惑の発覚、青函トンネルと瀬戸大橋が開通、東京ドームができた年。
となりのトトロが公開され、長渕剛さんの「乾杯」、工藤静香さんの「MUGO・ん…色っぽい」が流行りました。
ここで小田さん、「違いがわかる男、ネスカフェゴゴールドブレンドシリーズ」のCMに出ていたんですね。
知らなかった…
ソロ活動とグループの活動を同時に行って、全国ツアーもしていますが、11月にファンクラブ解散を告知しています。
この頃の楽曲は「君住む街へ」「夏の別れ」⇒この曲がオフコースの最後のシングルのようです
オフコース解散 1989年(昭和64年・平成元年)
64の年です。小田さんは42歳。
2/26の東京ドーム公演を最後に、オフオースは解散。
昭和の終了とともに、オフコースは終わったんですね。
そして平成と共に、小田さんも他のメンバーさんも、新しい道へ進んでいったようです。
私もこの年の3月に、高校を卒業し、親元を離れました。友達も知り合いもいない街で、一人ぼっちの暮らしが始まり、ホームシックでよく涙を流していました
同じ時期に、小田さんもひとりで歩きだしていたのだと思うと、感慨深いものがありました。
以上!
30年前にどうして小田さんにときめかなかったのか…
楽曲の感想そっちのけで、勝手にオフコースの歴史と私の歴史を一緒に並べてみましたが、そのお陰で、オフコースの歴史が少しわかりました。
また、この作業を行ったことで、私と小田さんは、中3の頃に一度出会っていたことを確信しました!!←恋愛みたいに言うな!!
それなのにオフコースにときめかなかったのは、小田さん、若くてかっこよかったけど、今よりもかなり尖がっていて、優しさが足りなかったせいかな ←おいおい小田さんのせいにするんかい!?
あの日あの時、すれ違ってしまったのはとても悔やまれますが、45を過ぎた今になって小田さんの歌が心に響きました!!
すれ違いから約30年の時を越えて、小田さんと、小田さんの音楽を愛せるようになって、今は本当に幸せです
今からでも少しづつ小田さんを知っていきたいと思います。
バカなファンのくだらない記事を最後まで読んでくださってありがとうございました!
楽曲のことは次回書きます。
↓
※更新しました