「観る味る北京4日」ツアーに70代の母と二人で参加し、2日目に訪れた「明十三陵(みんじゅうさんりょう)」について記事にします。
「明十三陵」は「万里の長城」とセットでツアーが組まれていることが多いようですが、この日も、午前中に「万里の長城の八達嶺長城」を散策して、食事を挟み、午後は「明の十三陵」でした。
広大な「明十三陵」のうち、一般公開されているのは、以下の4つです。
- 神道(参道)
- 長陵(最古で最大規模のお墓。地上建築物はほぼ明時代のものが残っている)
- 定陵(唯一、地下の墓室まで見学できるお墓)
- 昭陵(1980年代の修復・復元工事によって陵墓の全体的な構成を見ることができる)
今回のツアーで巡ったのは、「定陵」のみでした。
参考 今回の北京の旅については、高齢者の母と行く北京ツアー旅行 にまとめております。
目次
「明十三陵」とは?
「明の十三陵」は、簡単に言うと中国版の”王家の谷”。
「明」時代の皇帝13人のお墓がこの場所にあるため、「明十三陵」と言うようです。
この地に最初にお墓を作った4代目の永楽帝は、もともと別の場所にあった明の都を、北京に遷都したそうで、”都を北京に移してから、明の最後の皇帝までの13人の皇帝とそのお妃の墓”ということになります。途中、抜けている人もいるみたいですが、そこはスルーで。
ちなみに、頤和園で出てきた西太后、咸豊帝、ラストエンペラーの溥儀は、清王朝の人なので、明とは時代が異なり、お墓も別のところにあります。映画ラストエンペラーで、西太后の墓が暴かれたと知って溥儀が怒るシーンがありましたが、この「明十三陵」での出来事ではありません。
「観る味る北京4日」ツアーで回った「定陵」の観光コース
贅沢した報いで墓が暴かれた!?万暦帝の「定陵」
13ある墓のうち、墓の内部まで発掘したのは1ヶ所だけで、それが、13代・14代皇帝 万暦帝の墓である「定陵」。
「明十三陵」に埋葬されている皇帝の中で、万暦帝は特に贅沢な暮らしをしていたことで有名だったため、一番に発掘の対象になったそうです。
どうせ発掘するなら豪華な副葬品にお目にかかりたい!と思うのは自然なことですから、納得です!
実際に皇帝や皇后の冠など、3000点以上の出土品が、皇帝・皇后の亡骸と一緒に安置されていたのだとか。
地下宮殿の見学の様子
手荷物のX線チェックをしてから、地下宮殿に入ります。お墓の裏側から入って、正面側に出てくるという感じの見学ルートでした。
階段でどんどん地下に降りていきます。地下5階分くらいは下ったと思います。外は38度の暑さでしたが、中は冷やっこい!
地下深さ27mのところに、広さ1,195㎡もある巨大な墓室(地下宮殿)を建築しちゃうなんて、中国のスケール感はやっぱり半端ない!
この石のアーチ天井↓のすごいこと!まるでコンクリートの打ちっぱなしのようですが、石積みなのだそうです。
↓は出口の部分ですが、積まれた石の厚みが分かると思います。
柱や梁を使わずに、石をアーチ状に積み上げて作った地下建築物なんて、「明」の偉大さと、建築技術の高さを感じます。
この陵墓が作られた頃(1584年~1590年)、日本は安土桃山時代ぐらいですが、恐らく、このような技術はなかったのではないかと。
発掘を始めてから、入り口を探し当て、扉を開けて墓室に入るまでに、1年4か月もかかったそうです。
大きな石の扉は、1枚岩で作られていて、紫禁城の扉と同じ縦横9個で合計81個の丸い鋲が付いています↓。
鋲の数にはちゃんと意味があるそうで、中国の数字の吉凶は陰陽説が用いられていて、偶数は陰数、奇数は陽数と区別し、陽数(奇数)の方が吉とされます。1~10までの数字の中で一番大きな陽数(奇数)は9だから、9は皇帝を表す数字であり、皇帝に関連する場所では9が使われてきた、とガイドさんが話していました。
至る所に徹底して9が使われているところには感心します!
他にも、5も皇帝が使う吉数のようで、理由は1~9の中心だから、だそうです。
ちなみに↓が紫禁城(故宮)の扉。
2枚の石の扉に、内側から↓の石の”かんぬき”がはめられていて、発掘ではこれがなかなか外せなかったそうで、これを誰がどうやって内側からはめたのか???人が残った形跡もなかったらしく、今も謎みたいです。
門を模したような棺のある部屋への入り口↓。豪華です。
皇帝と二人のお妃の棺桶(レプリカ)↓。四角い大きいのがお棺で、その隣の小さい箱は副葬品が入っていたそう。
観光客の皆さんがお賽銭を投げ入れるみたいですが、係員の方が、無造作にほうきでお札を掃いていました。
皇帝の石の宝座↓。これはレプリカではないそうです。確かにこんなデカいものは、外に持ち出せないでしょう…
ひじ掛けのところなど、皇帝の象徴である龍の細工が細かいです。
↓は皇后の宝座。
もう1つ皇后の椅子があります↓。
こちらはお妾さんのもので、実際の地位は皇后よりも下でしたが、次の皇帝はこのお妾さんが生んだ息子でしたから、自分の生母を皇后と同等の地位まで引き上げる意味で、皇后と同じ扱いで埋葬されたのだとか。
発掘風景のVTRがおススメ
「定陵」の発掘調査が行われたのが1956~1958年。地下宮殿発掘の様子は、当時、VTRに収められました。
副葬品などが展示してある「定陵博物館」の出口付近に、TVモニターが設置されていて、映像が流されていましたが、この映像の中には、地下宮殿の発掘の様子を映した映像もあり、その様子がとても興味深かったので、訪れた際には是非じっくりと見ていただきたいです。
かなり乱暴な発掘で、棺を開くところは”力尽く”という感じで、「あぁぁ、それあかんやろ!壊れる、壊れる!やばい、やばい!」とハラハラの連続でした。
発掘したのは素人か?と思うくらい。
帰国してから調べると、どうも考古学的な発掘技術がまだ未熟な状態で実施されたらしく、発掘時に大切な遺物がかなり壊されたようです。
あんな雑な発掘じゃ、壊れて当たり前ですね…
特に衣類や布類などは、何百年も外の空気に触れていなかったものを、雑に扱ったため、修復が絶対に不可能なくらい粉々に酸化したらしく、展示してある布製品は全てレプリカなのだとか。
幸いにも発掘時の映像が残っているので、それを見て復元が出来ているようです。
文化大革命でとんでもないことに!
更にもう1つ不幸なことが!
発掘後しばらくは、皇帝やお妃の遺骸(土葬されていたもの)や、↑の写真でご紹介した赤い大きな棺桶なども保管してあったようですが、後に起こった文化大革命の、「過去の王朝時代の古い文化を残すことは悪!!!」という思想の元、たくさん出土された副葬品のほとんどが壊されたり、奪われて外に持ち出され、皇帝やお妃の遺骸まで燃やされてしまったという、信じられないことが起こってしまったそうです…
このような事情で、ここに展示してある装飾品や副葬品類は、ほとんどが複製品なのだとか。
墓を暴かれ、副葬品まで持っていかれて、最後には亡き骸まで燃やされるなんて、贅沢三昧な暮らしをして民を苦しめたバチが当たったのでしょうか、万暦帝は…
ホントにご愁傷様です。
それから先は、誰のお墓も発掘されておらず、後にも先にも、陵墓が開かれたのは万暦帝の「定陵」だけ!
他の12の陵墓は、今も手付かずで地中に眠っているようで、エジプトの”王家の谷”なら、すぐに墓泥棒に狙われて盗掘されたのに、中国ではしっかりと守られていて、世界遺産レベルのお宝が、まだまだ埋もれているようです。
「定陵」の地上の建物
地下宮殿の上(地上)には、主殿が建っていたようですが、戦火で燃えてしまい、今は柱のあった基礎部を残すだけになっていました。
最後に燃やしたのは日本か↓
「明楼」
「明楼」の中には、大きな万暦帝の位牌がありました。
「明楼」からの眺め。
遥か遠くの建物も全て「明十三陵」の一部だというから驚きです。ひ、広い!
永楽帝は、この場所に墓所を作る際に「風水」を用いたそうです。
この地が”四神相応の地“だったかどうかまではわかりませんが、北側に玄武(高い山)と、南側に朱雀(平地)はあるようでした。
13の陵墓の内の12が、現在も手付かずの状態で残されていることを考えれば、この地を選んだ風水師?の判断は、正しかったと言えるかもしれませんね。
以上となります。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。